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セコム創業者「戸田壽一」とは
セコム創業者の戸田壽一さんとは、セコムの現取締役最高顧問・飯田亮(いいだまこと)さんと二人でセコムを創業した日本の実業家です。
セコムの創業ストーリーなどを見ると、創業社長を務めた飯田亮さんがクローズアップされることがほとんどですが、セコムの成功を身近で見ていた人に言わせると、ナンバー2として飯田亮さんを支えた戸田壽一さんの存在も大きかったようです。
その姿勢は、単に一歩下がって支えるのではなく、創業当時は一緒になって飛び込みセールスや営業活動に汗を流し、会社組織の皆と会社の理念について語り合う時は白熱の議論を交わすなど、熱い一面も持ち合わせています。
そして、セコムを日本でも有数の企業に成長させ、1997年(平成9年)に飯田亮さんと一緒に代表権のない取締役最高顧問へと退き、その後、2014年(平成26年)1月30日に心不全により81歳で亡くなっています。
ナンバー2に徹した影の功労者
日本警備保障株式会社(セコム)という会社の顔は、現在も取締役最高顧問の座にある飯田亮さんです。
会社についてのインタビューなども飯田亮さんが対応し、戸田壽一さんはナンバー2として表に出ることはなく、黒子に徹していました。これは、創業時に飯田亮さんが社長になることを戸田壽一さん自らが勧めて実現したことです。
二人はそれまでは友人同士でくだけた間柄でしたが、会社を立ち上げたその時から飯田亮さんに対する口調を改め、言葉づかいや態度で飯田亮さんを会社の代表として内外に示したのです。
飯田亮さんは会社の代表として日本の実業家でもトップレベルの成功をおさめますが、彼をトップに推したのは、親分肌な気質やここぞというときに発揮する勝負強さなどを友人として見抜いていたからでしょう。
また、ナンバー2として控えた理由として、二人が並んで会社のトップに居ると誰がトップかわからないという弊害があり、また、総力を結集するため、派閥ができると困るという考えもあったようです。
人物像
戸田壽一さんの風貌は、飯田亮さんよりも少し小柄で、メガネをかけることもある温和そうな人物です。その見た目から文化系にも見えますが、大学生のときには野球部に所属するスポーツマンでした。
性格は見た目のイメージ通りで、会社が成長しても偉そうなそぶりは見せず、社員感情を汲み取ってくれる人でした。
周りの人々の役に立つことを喜びと感じる人だったからこそ、ナンバー2という立場で表に出ることなく、会社の屋台骨を支え続けたのです。
また、亡くなったあとの「お別れの会」には財界人や取引関係者ら約2,000人が駆けつけ、故人の交遊の広さが伺えます。
人物評
プロフィール
- 名前:戸田壽一(TODA JUICHI とだ・じゅいち)
- 生没年:1932年(昭和7年)-2014年(平成26年)1月30日
- 性別:男
- 最終属性:セコム株式会社 取締役最高顧問
- 学歴:学習院大学政治経済学部卒業
- 婚姻:妻子あり
戸田壽一の経歴/略歴
- 学習院大学政治経済学部卒業
- 1962年 日本警備保障株式会社創業
- 1976年2月 代表取締役副会長就任
- 1997年 取締役最高顧問就任
- 2014年1月30日 心不全のため逝去
セコム創業者「戸田壽一」と「飯田亮」の関係
セコムの創業者の二人は、学習院大学在籍時に友人になります。
学習院大学で戸田壽一さんは野球部、飯田亮さんはアメリカンフットボール部に所属していて、お互い運動部所属という共通点がありました。
ただ、戸田壽一さん曰く「二人の性格的に似たようなところはなかった」そうですが、二人は『お酒が好き、酒に強い』という“お酒”がきっかけで、意気投合できたのだと思われます。
戸田壽一さんのほうが1つ上でしたが、当時は先輩後輩という関係ではなく、友人として将来の独立の夢を語り合う仲だったようです。
会社を設立してからは、代表として立てるためそれまでの口調をあらため、代表に対する丁寧な言葉づかいを徹底していたという戸田壽一さん。それでも、二人の根っこのところでは、学生時代に酒の席で熱く語り合った、仲のいい友人同士という関係が生涯続いていたのではないかと思われます。
戸田壽一さんの訃報を聞き、飯田亮さんは「片腕がもがれたというものではなく、右半身をそっくりもぎ取られたような衝撃を受けた」「彼は私の足らないところを全部補ってくれました。あんないい奴はいませんでした」と語り、得難い生涯の友人を偲びました。
飯田亮と戸田壽一の二人で日本警備保障株式会社(セコム)を設立
ここでは、なぜ警備会社だったのか、そして日本で初めて設立した警備会社がどうやって成長していったのか、その歴史に迫りたいと思います。
日本初の警備会社をたちあげたきっかけ
きっかけは酒飲みの二人らしく、とある飲み会でのことでした。
1961年(昭和36年)、浅草の鳥鍋屋でヨーロッパ帰りの知人と3人で食事をした時に、知人が「欧州には警備会社がある」と語ったことに二人はすぐに反応しました。
日本にはまだ警備会社という組織がなかったので、最初に取り掛かるビジネスとして「これだ!」ということになり、話を聞いて30分ほどで警備会社を立ち上げることを決断しました。
飛躍のきっかけは東京オリンピック
しかし、初めてのビジネスモデル、そして当時は「安全と空気はタダ」という世間の風潮があり、警備に対してお金を払うという会社はなかなか現れず、創業から4ヶ月後にやっと初めての契約を結ぶという状態でした。
その後、巡回警備や常駐警備の契約が徐々に取れる状態になっていましたが、会社が飛躍的に発展するきっかけは、1964年に開催された東京オリンピックでした。
代々木に作られる選手村について、工事や整備の段階から警備し、無事故で会期を終えることができ、警備会社という存在が社会から高い評価と信頼を得たのです。
日本で初めてホームセキュリティシステムを発売
1964年には、日本で初となるオンライン安全システム「SPアラーム」(当時は遠方通報監視装置と呼称)の開発に着手し、1966年には発売を開始します。
SPアラームは、異常が発生したら中央の管制室の赤ランプが点灯して異常を知らせるというシステムで、1969年に発生した108号連続射殺魔事件で「SPアラーム」が異常信号を受信し、駆けつけた巡回機動隊の隊員が犯人と格闘するなど犯人逮捕に貢献し、その名を日本中に知らしめました。
その後、「SPアラーム」は一般公衆回線を利用したオンラインセキュリティシステム「SPアラームホン」として低価格帯で一般にも普及を開始します。
さらに、1975年には世界初のCSS(コンピュータセキュリティシステム)稼働、1981年には日本初の家庭用安全システム「マイアラーム」をスタートさせるなど、最新テクノロジーを組み込んだ、最新鋭の警備サービスが会社の発展につながります。
警備業売上高で日本一
日本初の警備会社なので警備業売上高で日本一なのは当たり前と思われるかもしれませんが、セコムの売上高は巨額です。
発表された2020年3月期(2019年4月1日~2020年3月31日)の売上高は1兆600億円となり、日本でも有数の1兆円企業となっています。(1兆円突破は前期の2019年3月期から)
また、シェアに関しても、同期の数字では綜合警備保障(アルソック)4,601億円、セントラル警備保障678億円となり、2位にダブルスコア以上の差をつける、圧倒的なトップシェアを誇ります。
事業立ち上げ時のエピソード
日本で最初の警備事業は、それまでに存在しなかったサービスなので立ち上げ時には苦労がつきまとったようです。
飯田社長までセールスマンとして飛び込み営業を続け、最初の巡回契約が取れたのは創業してから4ヶ月後のことでした。
最初は苦戦続きでしたが、創業してすぐに「フクロウ」と「カギ」の社章をデザインし、ラテン語で“VIGILAMUS DUM DORMITIS(万人眠れるとき、われら警備す)”という言葉を記すなど、会社のコンセプトが固まっていたため、ブレずに根気強く営業を続けられました。
会社の理念は戸田壽一さんと飯田亮さんの二人が定めたもので、1本芯の通った理念は、多少の苦難でも簡単には揺らがないということを教えてくれます。
セコム株式会社の事業内容
セキュリティ事業
創業事業であるセキュリティ(警備)事業は今でも中核事業です。
「いつでもどこでも誰にでも利用できるサービス」をコンセプトに、日本初の家庭用安全システム「セコム・ホームセキュリティ」の提供や、個人向け位置情報提供サービス「ココセコム」を開発するなど、常に革新的なセキュリティシステムを生み出し、総合セキュリティ企業のトップの座を守っています。
防災事業
防災事業は、防災業界最大手の能美防災株式会社の子会社化、防災業界大手のニッタン株式会社のセコムグループ入りにより、セコムのセキュリティ事業と防災事業を融合させ、さまざまな防災システムを提供しています。
メディカル事業
警備だけではなく、別角度から家族に「安全・安心」を届けるため、健康、医療、介護などのメディカル事業にも力を入れています。
事業は、セコム医療システム株式会社を中心に、在宅医療サービス、総合的メディカルサービスを提供しています。
保険事業
セコム損害保険株式会社が、リスクを未然に防ぐセキュリティシステムと、被害にあった時の損失を補償する損害保険の両方を組み合わせた「火災保険セキュリティ割引」「セコム安心マイホーム保険」「自由診療保険メディコム」といった損害保険商品を販売しています。
地理空間情報サービス事業
セコムグループの他の事業分野で基盤になりうるのが地理空間情報サービス事業です。
具体的には、航空機を使用した測量、地表データ、GPS衛星と携帯電話基地局で検索した位置情報をパソコンや携帯電話で地図に表示する技術などで、高次元・高精度の空間情報収集・処理技術を駆使した「空間情報サービス」として活用します。
BPO・ICT事業
BPOとはビジネスプロセスアウトソーシングの略で、経営資源の観点から戦略的に実施するアウトソーシングのことです。また、ICTとは情報通信技術の略で、通信技術を活用したコミュニケーションを指します。
これら2つの事業では、これまで開発したシステムや抱えている人財、培ったノウハウを活かし、情報セキュリティサービス、大規模災害対策サービス、セコムクラウド(機能レンタルサービス)といったサービスを提供しています。
まとめ
戸田壽一さんは、会社設立時に飯田亮さんを補佐し盛り上げるナンバー2になることを決め、その役割を全うしました。
もとより、温和で話もうまく、多くの人と交流ができる戸田壽一さんは、トップとして突っ走る飯田亮さんを支えるのにうってつけの人物でした。
戸田壽一さんはすでに鬼籍に入っておられますが、二人が酒の席で膝を突き合わせて語り立ち上げたセコムは、今後も人々に安全と安心を届け続けることでしょう。
会社概要
名称 | セコム株式会社 |
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所在地 | 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前1丁目5番1号 |
設立 | 1962年(昭和37年)7月7日 |
代表取締役社長 | 尾関 一郎 |
資本金 | 664億円(2021年3月末現在) |
従業員数 | 16,290人(2021年3月末現在) |
株式上場 | 東京証券取引所市場第一部(1978年5月)/証券コード:9735 |
戸田壽一さんは、創業から徹底して飯田亮さんを支えるナンバー2としてのポジションを守り、セコムを売上高が1兆円を超える大企業へと成長させることに成功しました。
創業者でありながら、黒子に徹していたのであまり情報は多くはないのですが、セコム創業者の戸田壽一さんがどのような人物だったのか、もう一人の創業者である飯田亮さんとの関係、会社内でどのような立ち回りをしていたのかなどを調査しました。