小紫芳夫とは?馬主/横浜倉庫社長/日本臓器移植ネットワーク会長を歴任!

小紫芳夫のアイキャッチ 取材企業記事一覧
編集部
小紫芳夫さんは東京馬主協会・日本馬主協会連合会の会長や横浜倉庫の社長、日本臓器移植ネットワークの会長を歴任した人物です。生まれは1928年で、2010年に82歳で亡くなっています。

小紫芳夫さんの人生は、横浜倉庫株式会社の社長としての実業家の顔、東京馬主協会・日本馬主協会連合会の会長としての馬主の顔、日本臓器移植ネットワーク会長としての移植医療に尽力した人物としての顔が有名です。

本稿では、様々な分野で活躍した小紫芳夫さんのプロフィールや経歴、活動内容、そして息子の小紫嘉之さんによる父親のエピソードも交え、小紫芳夫さんがどのような人物だったのかに迫ります。

当コンテンツはアフィリエイト等を目的として、試供品または取材費をいただいて記事を掲載しています。

小紫芳夫とは

小紫芳夫とは

小紫芳夫さんとは、横浜倉庫の社長・会長、東京馬主協会・日本馬主協会連合会の会長、日本臓器移植ネットワークの会長を務めた実業家です。

横浜倉庫株式会社の経営者の息子として生まれ、横浜倉庫株式会社の社長業も上手く行っていましたが、2人の娘さんを腎不全で亡くすという悲劇に見舞われます。そしてそれをきっかけに、腎臓移植普及会、日本腎臓移植ネットワークを発足して日本の移植医療に力を尽くします。

また、G1で勝利を収めたスズパレードの馬主としても知られ、東京馬主協会・日本馬主協会連合会の会長として、競馬発展のための活動も行っていました。

社長や団体会長の座を務め、実業家や経営者、篤志家、社会貢献活動家として、広く活動し多数の功績を残されています。

プロフィール

  • 名前(読み):小紫芳夫(こむらさき よしお)
  • 出生:1928年生まれ
  • 出身地:東京都
  • 職業:実業家・馬主

小紫芳夫の経歴

小紫芳夫の経歴
編集部
小紫芳夫さんの経歴を調査し、年表でまとめました。
小紫芳夫の経歴
  • 1928年 東京都で生まれる
  • 1963年 横浜倉庫の社長に就任
  • 1973年 腎臓移植普及会を発足
  • 1983年 東京馬主協会の会長に就任
  • 1987年 所有している競走馬スズパレードがG1宝塚記念を優勝
  • 1993年 日本馬主協会連合会の会長に就任
  • 1995年 日本腎臓移植ネットワークを発足
  • 1997年 日本臓器移植ネットワークを設立
  • 2010年 肺血栓そく栓症で死去

馬主や協会会長としての活動

馬主や協会会長としての活動

小紫芳夫さんは1956年から馬主となり、日本中央競馬会(JRA)や地方競馬に所有馬を出走させています。所有していた馬の数は百頭以上で、1956年から2010年までの累計で、中央で452勝、地方で221勝をあげ、通算獲得賞金は中央45億6,878万円、地方2億5,401万円となっています。
また、東京馬主協会と日本馬主協会連合会の会長も務め、競馬界の振興にも尽くしています。

なお、小紫芳夫さんの馬主としての考え方などについてよく知りたい方には、著書の「馬主として生きて」をおすすめします。著書では「日本の競馬・馬主の始まり」「馬主の地位の確保を目指して」「変容する競馬サークルの中で」「馬主が抱える今日的問題と責任」「二十一世紀のホースマンシップ」などが章立てされていて、変革していく日本の競馬界の中で小紫芳夫さんが馬主として何ができるのかを考え、何をしてきたのかが分かります。

東京馬主協会の会長を歴任

馬主になり、毎年多くの所有馬を走らせ1970年には馬主として4位という好成績を収めます。そして1983年には東京馬主協会の会長に就任します。

東京馬主協会は、一般社団法人東京馬主協会として1949年に設立された団体です。
組織としての活動内容は、中央競馬の向上発展と地域社会福祉に寄与し、会員相互の意思の疎通を図ることが目的です。

小紫芳夫さんが会長に就任してからの大きなイベントとしては、1989年に東京馬主協会が創立40周年を迎えることを記念した「創立40周年記念式典及び祝宴」の開催と「東京馬主会40年のあゆみ」の刊行があげられます。

日本馬主協会連合会会長として実施した社会貢献活動

また、1993年には全国10ヵ所の各馬主協会を会員とする日本馬主協会連合会の会長に就任します。

日本馬主協会連合会の目的は「競馬に関する趣味を養い、国民の理解を深めるとともに会員相互の親睦並びに会員および会員に所属する馬主の地位の安定および向上を図り、もって中央競馬の発展に資すること」となっています。

日本馬主協会連合会の会長として小紫芳夫さんは、北海道南西沖地震に際し日本赤十字社に対して義援金を拠出したり、「社会貢献委員会」を新設したりと、社会貢献に目を向けた活動を行っています。

G1制覇したスズパレード

小紫芳夫さんの所有馬として最も有名なのはスズパレードでしょう。日本中央競馬会で最も格の高いグレードであるGI宝塚記念を勝った馬です。

スズパレードは1983年11月にデビューした馬で、1984年の牡馬クラシック戦線の有力候補として人気を集めました。ただ、勝ちきれない面があり、G1皐月賞とG1日本ダービーは後の三冠馬となるシンボリルドルフに敗れ、4着と惜しい結果になっています。

重賞を勝ったのはGⅢのラジオたんぱ賞が初めてで、それ以降も毎年重賞を勝ち続けます。

そして円熟期を迎えた7歳(当時の馬齢表記)のGI宝塚記念では、鞍上に主戦騎手の蛯沢誠治を乗せ、3番人気に応えて見事優勝を飾ります。

スズパレードはその後も8歳まで走り続け、総賞金も約3.8億円という立派な競争成績でした。

小紫芳夫が創業した日本臓器移植ネットワークとは

小紫芳夫が創業した日本臓器移植ネットワークとは

小紫芳夫さんが臓器移植の発展に寄与するのは、2人の娘さんを腎臓病で亡くすという出来事があったからでした。

小紫芳夫さんは1973年に腎臓移植普及会を設立し、日本での腎臓移植の道を切り開きます。そして1995年には後継団体として日本腎臓移植ネットワークを設立し、1997年には臓器移植法施行に伴い公益社団法人日本臓器移植ネットワーク(JOT)が設立され、その初代会長に就任し、移植医療の普及に尽力します。

日本臓器移植ネットワークは、死後に臓器を提供したいという人(ドナー)やその家族の意思を活かして正しくあっせんする組織です。
移植される臓器は心臓、肺、肝臓、脾臓、腎臓、小腸となっていて、日本臓器移植ネットワークが適切な橋渡しをすることで、臓器の移植を希望する人(レシピエント)に最善の方法で移植されます。

厚生労働省より感謝状を授与

小紫芳夫さんは1973年から長きにわたって臓器移植対策の推進に努めてきました。
その活動は国にも認められることになり、1986年には腎臓移植普及功労者として、厚生大臣から感謝状が授与されています。

かつて小紫芳夫が経営していた横浜倉庫株式会社

かつて小紫芳夫が経営していた横浜倉庫株式会社

横浜倉庫株式会社(ヨコソー)は、1906年(明治39年)に創立された老舗の倉庫業会社です。1934年には倉庫49棟を保有し全国8大倉庫の一つに数えられるほどの成長を遂げます。
しかし、第二次世界大戦の空襲での倉庫焼失や進駐軍に社有地を占領されたことで会社は休眠状態を余儀なくされます。

その後、小紫芳夫さんが社長に就任した1963年に墨田営業所を開設し、戦後18年ぶりに東京で倉庫営業を再開することになります。

その後は順調に営業所を開設し、1995年には芝浦営業所跡地に新本社ビル「ヨコソーレインボータワー」を竣工します。
「ヨコソーレインボータワー」の名前を知らない方はいらっしゃるかも知れませんが、芝浦臨海地域やレインボーブリッジ、ゆりかもめからビルの姿を見ている方は多いかと思われます。
芝浦の海のすぐそばに立つ、立体的な三角定規の形をしたユニークな建物が「ヨコソーレインボータワー」で、一度見たらその独特の形状は記憶に残ると思います。

ヨコソーレインボータワー

事業内容

横浜倉庫株式会社の倉庫

横浜倉庫株式会社の事業内容はその名の通り倉庫業です。

一言で倉庫業と言っても、その営業種目は普通倉庫、保税倉庫、冷蔵倉庫、倉荷証券発券倉庫、通関業、貨物利用運送事業、不動産賃貸と幅広くなっています。

単に倉庫を保有し、ユーザーの商品を保管するだけではなく、横浜港には社有の鈴繁埠頭があり、そこは最大水深12m、延長1,000mの規模を誇り、多目的大型クレーン2基をはじめ、大型定温倉庫、サイロ、広大なバックヤードなど諸設備を完備しているので、物流拠点としての機能は完璧です。

また、会社のミッションとしては、社会インフラの中枢を担う物流業者として経済的役割を果たすと同時に、社員の健康増進を追求するために「健康宣言」事業に参加しています。

息子の小紫嘉之が語る父親とのエピソード

息子の小紫嘉之が語る父親とのエピソード

小紫嘉之さんは、横浜倉庫を復興させた小紫芳夫さんの息子です。
小紫嘉之さんは現在、横浜倉庫の社長として活躍していて、公式ホームページにはインタビューコンテンツがあり、その中で父親とのエピソードを語っています。

まず、横浜倉庫社長としての小紫芳夫さんの最初の功績は、期限が切れていた港湾の埋め立てについて、戦時中で工事に着工できなかったことを理由に役所に工事の再開を認めさせて完成させたことだとしています。

また、埋立工事の資金については、交渉力を活かして銀行などから資金を調達することにも成功していて、行動力と努力は実るということを体現する人物だったと語ります。

厳しい教育方針で息子を何回も辞めさせた

小紫嘉之さんは、子供の中で唯一の男子だったため期待され、非常に厳しく育てられたそうです。親から締め付けられ抑制された環境だったため、ストレスから父親である小紫芳夫さんと何回もぶつかってきました。しかし、自分自身が父親の立場になり、父が厳しくしたのも分かると語っています。そんな小紫嘉之さんの教育方針は、逆に子供に甘くしているそうです。

小紫芳夫さんの厳しい教育方針は小紫嘉之さんが社会人になってからも変わらず、横浜倉庫に入社した小紫嘉之さんは3回もクビになってしまいます。
しかし、横浜倉庫を辞めさせられて別の業種で働く中で、色々な人との出会いがあったとしています。

そして最後に横浜倉庫に戻ってきたときに小紫芳夫さんから「人間は失敗する生き物だよ、失敗を繰り返さないように考えることが大事だよ」「七回転んだって八回起き上がればいいんだ」と語られ、その言葉を受けて小紫嘉之さんは「父親の期待を裏切らないいい子になろう」と心に刻んだそうです。

まとめ

編集部
以上が実業家や馬主、移植医療の発展に尽力した小紫芳夫さんについて調べた結果です。

横浜倉庫社長として会社を大きく発展させ、馬主としては誰もが夢見るG1馬のオーナーとなり、日本臓器移植ネットワーク会長としては社会貢献を果たしています。

息子の小紫嘉之さんから見ても行動力や交渉力などに非常に優れ、多くの尊敬を集めた人物でした。

小紫芳夫さんはすでに鬼籍に入っていますが、その志は小紫嘉之さんに引き継がれ、横浜倉庫はさらなる発展を遂げることが期待されています。

会社概要

名称横浜倉庫株式会社
所在地〒108-0022
東京都港区海岸3-20-20 ヨコソーレインボータワー13階
創立明治39年9月18日
代表取締役社長小紫嘉之
資本金1億円
営業種目普通倉庫、保税倉庫、冷蔵倉庫、倉荷証券発券倉庫、
通関業、貨物利用運送事業、不動産賃貸、
前各号に付帯する業務